昭和47年12月13日 13日会
今日朝の御祈念の後でしたけれども、北野の深町さん青年会の幹部の方ですけれども、最近身体の具合が悪くてまぁ大変心配致します、まぁ安心が出来る様に医者に診せて頂いたら良かろうという事で、それから一段と熱心に信心も出来る様になりました。それで医者に参りましたら始めは大変難しく言うておられたのが、その次にはおかげを頂いて、これはまぁ安心がいく様なお医者さんの話であった。そこで自分も安心が出来た訳で。それでも尚いよいよ信心の方は熱心にして。
段々今おかげを頂いておるわけでございますが。先日ある人があのうあなたは毎日御神米を頂いておられますかと言われた。だからやはりあのう御神米頂かにゃいけんだろうかと言う風な事を言うて、そりゃ私共も子供の時から、もう何と言ぁ御神米であり御神酒でありおかげを頂いて参りました。けれども私しは金光様の御信心がの、御神米を頂いて病気が治ったとか、御神酒を頂いておかげを頂いたと言う事があって良いどころじゃないですけれども。それだけだったら金光様の信心なもう値打ちはないと思うですね。
皆さんどう思われますか、そりゃ本当にあのう生きたたつにはおられませんよね、例えばおなかがせくとに早よ御神米御神米言いたいわけです、痒いかところがありゃならお神酒さんを早よとこう言いたいです。そこややはりあのう痛ければ痛い、痒ければ痒いでお願いをすると同時に御神米だ御神酒だと、だから御神酒御神米は決して切らすことは出来ませんよ、ちゃっと頂いとかなければならんというて、ここではもう度々に御神米をさげませんからね。
皆さんに2体か3体いつもこう持っておるだけで、それが切れるとまたいるだけはあのう下げると言う行方なんです。でよその教会ですともう10人のお届けすると10体さがる、もうですからもう私共の方では、タンス一杯御神米がたまると言う様な事で、お粗末にもなりかねないと言う事でした。ならここではその行方をです、私は御神米でおかげを頂くとか、御神酒でおかげを頂くと言う事だけが、もし金光様の御信心であると言う様なな事に間違えられたら大変な事だと。
金光様の信心はもうどこまでもですね、私は改まって願う所からおかげを受ける。例えば病気なら病気を、その事によって改まってお願いをする。昨日の朝の御理解じゃないけれども、何が聞くというても心ほど利くものはないという。ですから病気なら病気難儀なら難儀に直面した時に、私共が改まってその難関を突破することが出来た、または病気全快のおかげを頂くことが出来たと言う事であればです。神様のおかげを頂くだけではなくて、その難儀を通して私の信心は一段と飛躍しておる分けです。
心が成長しておる分けです。そういう私は生き方でなからにゃこれからの金光教の信心は、私は駄目になると思う。御神米、御神酒依存と言った様なね。だからとにかく御神米を頂いて病気が治ったと、それがそういう奇跡を現わす奇跡の例は沢山あります。けれどもそれだけで金光様の信心というて、金光様のここにもそんな人があるんです、毎日1体づつ頂かにゃ気が済まん人があります。ですからまぁそういう人にはおあのうあげます。けれどもそれではですね、それだは私はいかん。
もうやはり自分の心の上にいつも改まる事の上に改まると言う事によって、おかげを受けられるのですから金光様の信心では、改まると言う事が信心が成長していく事なんです。信心が色々詳しい事を覚えたと言う様な事が決して信心の成長じゃありません。自分がもういよいよ改まりに改まって、今朝の御理解じゃないですけれども、それこそ私共の心の底の方にあやしいまでにうごめいておる、神の機感にかなわぬ心。そういう心を見つけ出し発見してはそれを取り除いて行こうと言う様な信心から。
和賀心がいよいよ神に向こうて行こうと言う事になるのです。御神米で度々おかげを頂いておりますと言うので、決して心の成長やらは生まれてまいりません。きょうその朝から頂く御理解で頂いております様に、もうその心ほど利くものはないのである、もう心一つに取り組まして頂いての信心をいよいよ身に着けていきたい。13日会と言えば神の願いが成就するという成就する日と。これは今日あるお届けがございました。それも大変に難しい問題です。
もう本当に難しいけれどもそれが丁度今日13日の日に、その日にちがたっておるので向こうから手紙が来ておるのに。本当に13日と言う事である事でこんな難儀な問題だけれども、安心しておりますと言った様な事を言うて来ておる。神様の願いが合楽では成就すると言う日に、私のこういう難儀な問題に直面すると事になったと言うのです。だからこれは難儀な事ではない、神の願いが成就する事のためだと思うたとこう言うのです。また末永先生が学院の友達であります。
ここに暫く修行に来てました、佐藤くろうという先生です、その方は姉さんが今日9時半から手術が入っておりますが、何と1週間身体を冷凍してしまうんだそうですよ。きょうのその9時からそれが始まるんだそうです。9時半から。もう私しは本当にもうのぞめだと思いがしましたね。人間をあのう冷凍の魚の様に冷凍にしてしまうんだそうです。広島の方で原爆症での病気なんですね。もう私は本当にけれどもねあのう先方にもそれを思い、こちらからも電報を昨日打ったと言う訳ですが。
それがちょうど13日の日からそのことが、あのういうなら治療と言うですかその施療が始まると言う事はね。こりゃもう本当に安心してその医者に委ね任せていいですよと言う事を電報で知らせたというて、今朝からあのう末永さんが言っております様にですね。13日会と聞いただけでそれがどういう問題であろうが、そういう大変な本当に身の縮む様な事になって行く様な事であっても、はぁ今日は13日だぁ合楽では神の願いが成就する日として、大事にされる日に私共のそう言う事になるんだと言うて。
まぁ喜びとはいかんでも何とはなしに安心して、その治療を受けることが出来る、その問題に接することが出来ると言う位なんですからね。そんなら神様の願いと言うのは、その氏子が本当に助かると言う事、それは病気がよくなると言う事ではなくてね、その人の心が本当に助かるいうなら、和賀心時代が段々その人の心の中に自分の家庭の中に、それが世の中に成就されていくような働きがね、始まると言う事がこりゃ神の願いなのですから。例えば病気してから御神米でおかげを頂く。
そりゃ頂かなきゃおられません。ぜひ腹が痛かなら御神米と言いたい、だから頂いて奇跡的なおかげも頂かなければならんけれども。それだけでおかげを頂いたと言う金光教であったら、金光教は大したことはない。いつもその都度に和賀心の状態が深められ広められてからこそ尊いのであり、だからこそ金光様の信心は尊いんだと言う事が、分からせて頂かなければならんと思うですね。
どうぞ。
音声は次の内容が続くが、以下の御理解は別の日の御理解だと思われる。末尾で途中切れている。
その中になら子孫繁盛家繁盛を願うでしょう。願うからにはね、第一自分が頂いておる仕事に忠実にならせて頂きますという、言う言うならば世界が止まらにゃいけんと言われる。ね。家繁盛のおかげを頂くためにです、なら無駄遣いなどは致しません。それこそ身を削ってでも家繁盛のためにおかげを修行させてもらいますと言う様な、祈りがいうなら願った事に対するその裏付けの様に、その誓いの言葉というものを繰り返しておるわけですねお互いが。
子孫繁盛家繁盛を願うからには、今も申します家業に忠実にならせて頂きます言う、そのあれがあります様に、その家業に忠実にならせて頂くと言う事はね、いわゆるそれはおぼし売の様な行になるのです。いうなら大と小というなら大の様な、大の修行になるのですね。そこでです例えば普通から言うと、なら子孫家繁盛なら家繁盛を願う。一生懸命働いて一生懸命金を儲かって、始末倹約をする、成程それで確かに違いましょ。おかげへとけれどもね。
働けど働けどわが暮らし楽にならないとか、稼ぐに追いつく貧乏なしと言う様な事があるでしょうが。だからその仕事に忠実であるとか、働くとか始末倹約すると言う事は、確かに金を作る上の一つの条件ではありますけれども。世の中はそう甘くないと言う事です。そうしょるけれども金は残らん。借金は増えていく人もあるでしょう。それがです私しゃ信心の世界に入らんと分からんと。やはりめぐりというものを、そこに感じないにゃおられないし。
または特別の神様の御働きというものを感じん訳にはおられんのです。ですからねならその子孫繁盛家繁盛を願わせてもらう。そして忠実にならせて頂くと言う事はね、忠実になったからおかげを頂くのではなく、忠実になったから金がたまってくると言うのではなくて、それもありましょうけれどもです、神様の御教えを頂いた、言うならば家業の行をしたからおかげになるのです。私ここんところからのとわからのですね、いうなら信心はなかってもですね。
家業に忠実で、そして無駄使いはしませんと言う生き方でいきゃ、家繁盛子孫繁盛になるかと言うとそうではないです。信心させて頂いて、その教えを、家業の行ぞと仰るのですから。その家業の行に取り組むから、おかげになるのです。例えばあのう、商売をするなら売り場買い場というてと仰る様にです。それを大事にするから、繁盛するのじゃなくて、教祖の御教えをそれをそのまま頂くから、思いもかけない、繁盛におかげになってくるのです。
だから行の中にもですね、小の行と大の行とがあるのですから、それを冷や水の行を少とするならです、私はいくら小の行でも冷や水の行も、例えば自分が本気でやらしてもらおうと言う時にゃやらしてもろうたがいいね、表行も。けれどもそれはどこまでも小のもの。大のものは何と言うても家業の行である。または表行のよりは心行をせよと仰るその心行である。で私は今日はこの御の字をそういう風に頂きましてね、どの御理解にもとづいてと思うたらこの75節を頂いたのです。
そこで今日は私共の心の中にね、人を殺す人を傷つける、と言った様な心があります中にもです、怪しいまでに自分の心の中にです、ひとの例えば不幸せを見てニヤッと笑う様な心がです、お互いの心の中に巣くってるんですよ人間の心の中には。ですからそういうもう巣くっておる様なものね、その中に言うならば巣を持って居ってその巣を中に入り込んでおる様なものなんです。巣くって居ると言うものはそう言う意味なんですね。
私共の心の中にこうそれこそしみ込んでる。特に商売仇なんかの方ですね、不幸な事でも起こるとそれこそ手を叩きたいばっかりに、私し本当にそういう心は自分ながら恐ろしい心だと思いますね。もう私じゃないと言よるけれどもですね、もう厳密に厳密にいうとあるんです。だから顕微鏡で眺める様な心をみるとあるんです。そこでせっかくおかげを頂くならば神のそのそういう心が、神の機感にかなわぬと仰せられるのだから。それを取り除く事に焦点を置くと言う事。
それどころかそれとは反対に、いわゆる可愛いと思う心が神の心じゃと仰るその、神心(かみごころ)その神心を私共がいよいよ頂くかして頂くための精進をする。それが信心だとから言うてもいいのです。段々神様の心にかなわない心が無くなって、神様に愛でいつくしみられるまでのところの、心の状態というものが心の中に段々大きくなっていく、そこに有り難いなぁと、そで自分で自分の心を拝みたい様な、心の状態が生まれてくるわけなんです。これは心の中にある事が言葉に出ます。
そして自分でハッとするようにです、はっこう言う様な事を言うたら、あの人とこの人が喧嘩する様な事になりだんせんじゃろかと言った様ね事があるです。またそれをですね大変趣味の様にしとる人もありますよね。隣近所にありましょが隣組にに一人ぐらいおるですよ。いわゆるあのう何ちゅうですか、レンコン掘ったりしますねあげんと。あっちんがた昨日あすこにあげんことがあったげながちゅなんて、いうてさるかにゃできんち。ああたのことばあの人はあのように言うちゃったですばい。
そうですかっち言うてもう喧嘩されて、蔭の方でやぁっとこうやってそれを見とってから、高みの見物するとちうゅな人です。いやお互いの心の中にもあるですそれは、本当不思議なくらいあるんです。でならですそのごと謹んで言わんです。けれども心の中にあるです。今日私はそういう心をね怪しい心だと思うんです。それこそ怪しげな心ですよいわゆる。だからこの怪しいものをとっちめなければいけんのです。
それどころか自分の心があそこも幸せになってもらいたい。ここも本当に幸福になってもらいたいと言う様な心がですね、例えばいつも心の中にありますと出る言葉もです、本当に相手が傷ついておられるならば、それが癒える様な言葉が、もう死ぬ思いをしておられるでも、ほんにあなたの話を聞いて蘇ったと、生き返ったと言う様なね言葉と言うものもね、口から出せれるおかげを頂きたいと言うのです。もう何気なくもうさりげなく言ってるですね。
そして、そしてさりげなく言ってることに、人を殺したり傷つけたりする様な心がうごめいておるという様な事ではね、神の機感にかなわぬと仰せられるですから。神の機感にかなう氏子にお取立て頂きたい。のですから私共の心の中に些細なそれを心と思うておる、林田君とは考えんなり迂闊に言うたと言う事があえておる事ですね。迂闊に言うた事が変化をする様な結果になって、というけれども決して迂闊になんてんと言う事じゃないです、心にほん実際それがあるから出て来るのです。
こりゃもう本当にあるんです、お互い人間の心の中に、信心したってそんな時いんにゃ信心しょった人が、もう金光様せん人っじゃっておなし事。私でちゃおなしこと。だからそういうなら心を私共は厳密に、いわゆる取っ手を下げるというですかね、そういう怪しげな心を取って抑えてです、それを除かして頂くと言う改まり。それを今日は心行だと聞いて頂いた。
心の中だけでそれをしていくことですから、これはもう心行です。それが神の機感にかなわん。それがそれがおかげを頂けない元になっておるとすると、どですね、やはり些細な事を言うちゃおれんのです。私の心を本当に一つ綺麗にさせて頂くという、いわば修行が神行だしかも神行というのはです、私共日参りを一生懸命させてもらう、そんためにいろんな修行をさしてもらいよる。
だからそういう例えば修行よりもです、たとえば私共の心の中のそういう怪しげな心に取り組むと言う事は、もっともっと素晴らしい修行になると教祖は教えておられる訳です。この方の行は火や水の行ではない、家業の行ぞと、表行よりは心行をせよと。子孫繁盛家繁盛を願う。ためにその頂いておる家業そのものをです、よく検証と言う事を申しますが、神様に与えられたことで仕事だと思うてそれを忠実に、ここ何と言う事
途中末尾切れ。